あの子のこと
あの子は今でも中野の外れの古いマンションの一室で息をしている。
築45年5階建ての2階角部屋、8畳の部屋に3畳のキッチンがあるその部屋は窓が小さい。
隣には大学生の男の子が住んでいたはずだけど、今はどうなっているだろう。僕はその彼に一度も会ったことがない。
いつも薄暗くてカビ臭い階段を登り、同じく薄暗い通路を数歩歩いてあの子の部屋のチャイムを鳴らす瞬間はいつだって胸が高鳴っていた。いつ訪ねていっても鍵は開いていて、チャイムを押すと「開いてるー」と答えてくれた。
あの子はいつも部屋の中で小さな陽だまりを探している。見た目より軽い灰色のドアを軋ませながら開け、キッチンを抜けるとあの子の小さな頭が転がっていて、なんとなく僕はドギマギしながら声をかける。
小さな小さな埃っぽい陽だまりの中でゆっくり顔をあげ、うっすら僕に微笑むあの子はあの場所でないと生きることができない存在だったのかもしれない。
白に近い色の金髪にオーバーサイズの真っ白いTシャツ、余裕を持ちつつ体のラインにあった黒いスウェット姿のあの子を天使に例えるのは難しいのだけれど、あの部屋は俗世とは隔離されていて時間の感覚をいつもなくしていた。
白い壁に黒っぽいフローリング、木製の白い枠組みのベッドと腰くらいまでの本棚が二つ、あとは小さな折りたたみ式のテーブルくらいしかもののない部屋で、僕とあの子は陽だまりを渡り歩きながら時間を過ごした。
僕が部屋に滞在する時間は毎回せいぜい2時間くらいで、その間交わす言葉は両手で足りるくらいだったけれどそれでよかった。
僕はあの子のことが知りたいけれど知りたくなかったし、それはきっとあの子も同じだったのだと思う。嘘をついたことはないけれど、本当のことはどれだけ話せたんだろう。
あの子の部屋を出て、僕の家までは徒歩20分くらいで現実に戻るには十分な距離があった。
あまり人がいない住宅街を一人で歩く。耳元で鳴っているのはランダムに流れるTHE BACK HORNで「美しい名前」と「初めての呼吸で」を聴きながら生活に引き戻されていった。
当時の僕はまだ二十代半ばで大学に通っていた。
バンドとキャバクラのスカウトのバイトに時間の大半を費やし大学を留年していた僕は、何が生きていることかわからず、あの子といる時間が唯一息をしていることが感じられる時間だった。
歌いたいこともなく、かといってもう既に普通の大学生には戻れないという気持ちが常につきまとっていた。そんな生活を過ごしている時、あの子はふっと僕の前に現れて当たり前のように日々に溶け込んでいった。バイトの前にふらっとあの子の家に行って一緒にゴロゴロして、日が沈む前に帰る。
当時の僕たちはお互いの足りない部分をなんとはなしに埋めあっていたのだろう。僕やあの子に開いてしまっていた不定形の穴を埋めるために、僕たちはお互いを欲していたと思う。
そんな日々が三ヶ月ほど続いた。あの子と会わなくなったのは引っ越しをしたからなんていう大したことのない理由だったはずだ。僕はそれから三回ほど引っ越しを繰り返し、当時のことはほとんど薄れていってしまった。
つい先日、再度引っ越しを行い中野に舞い戻った。
会わなくなってからあの子を思い出すこともなくなり、僕の生活はあの子の部屋とは乖離して行った。
時々部屋に刺す、埃にまみれた西日の光線を見るとふとあの部屋に続いているよいうな気になったけれど、そこにあの子は当然いなくて僕の部屋は僕の部屋のままだった。
生活は少しずつ、変わっていく。借りる部屋の家賃は少しずつ高くなったし、歩くスピードも速くなった。THE BACK HORNもあまり聞かなくなったし、会社でも正社員になった。サンシャインと正社員て似てるなぁ、なんて思いながら陽だまりを眺める日々が続いている。
それでもきっと、あの子は今でも中野の外れの古いマンションの一室で息をしている。その生活はやはり外界と隔絶されていて、あの子は陽だまりと埃に囲まれて僕が声をかけるまでずっと、横たわっている。